私たちの暮らしの中には、例えば<器>の日常的な使い方にも、手に馴染んだ器を使うのと使い捨ての紙コップを使うという、両面があります。
―― よくわからないけど二十回くらい使った紙コップをみたことがある (飯田有子)
歌人・穂村弘氏は、この短歌を一読して不思議な気持ちになったといいます。「使い込まれた器」や「使い捨てられた紙コップ」なら話は分かりますが、この歌の<私>は「よくわからないけど二十回くらい使った紙コップをみたことがある」というのですから、日常の中で見つけた違和感に取り残されてしまいます。 (『ぼくの短歌ノート』穂村弘 講談社)
私たちは普段、長年「使い込まれた器」を大事にする一方で、洗浄も手入れも要らない、一度使ったら捨てることが想定されている(まぁ気持ち的にいったん洗ってから)「紙コップ」も、便利に使っています。使い捨ての紙コップを「二十回くらい」も使うことはまずないので(とはいえ自分用だと何回かはあるか)、とある日、<二十回くらい使われた>紙コップが<日常の中の違和>として<私>の目に留まってしまったのでしょう、「よくわからないけど」いかにもありそうなシチュエーションです。
「その紙コップ、一体いつまで使ってんだよ」と突っ込みを入れたくなるまで使い続けているという背景には、そこに置いたままになっている紙コップなりの、何らかの理由があったに違いありません。もしかすると、その紙コップにはある人の特別な想い出が纏わりついていることも考えられます。それとも何ものにも替え難いフィーリングがあるのでしょうか。あるいは、ただ単に惰性で使用してきただけで、特に何らかの意味はないのかもしれません。いや、そんなこととはまったく関係はなく、「二十回くらい」使われた「紙コップ」が、ただそこに置かれていただけではないでしょうか、「よくわからないけど」。
そう、この歌人は「よくわからないけど」確かにそんな「紙コップをみたことがある」のです。私たちの日常には、そうした<違和感スポット>のような瞬間が時おり(これには個人差があるかも)出現することがあります。
