『いい感じの石ころを拾いに』(中公文庫)の宮田珠己によれば、種村季弘の『徘徊老人の夏』というエッセイ集の「何でもない石の話」には、松山巌のエッセイから「拾ってきた小石を手の中で握りしめると気が楽になると」いう部分を引用して、それは「海岸や川原で何となく気になる石を拾ってしまうという話」で、そこには「宝石や名石のような固有名詞のある石では気持ちが楽になることはない、そこらに転がっている普通名詞の石にだけその効果がある、石は何でもない石に限る」と断定している、といいます。
世の中には、他人から見ればどうでもいいようなモノやコトに不可解なぐらい執着する人が、それほど目立ちはしませんが(そういう人は結構シャイで恥ずかしがり屋)、相当数いるはずです。例えば前述の「石好き」なんかもその部類かもしれません。
宮田によれば、世の「石好き」にも光り輝く宝石をこよなく愛でる人や、これしかないという石をここしかないという場所に置いた庭を日がな一日眺めて厭きない人がいますが、まぁこうした人々の手のひらにはそれなりのお金が乗っかっています。あるいは、石を鉱物として求め続ける、いわば学門的に追及するという一派、まぁこれらの人々は、お金はけっこう掛けてはいるけれど、よっぽど単純なのか、まったく気が回らないのか、あんまりそうしたことを気にしていなさそうな部類に属します。
この広い世の中には、それらの一切と袂を分かった、ひたすら純粋に「石好き」な人たちもいるようです。それが、冒頭で引用した「手の中で握りしめると気が楽に」なり、「何となく気になる石を拾って」しまって、「固有名詞のある石では気持ちが楽になることは」なく「普通名詞の石にだけその効果がある、石は何でもない石に限る」という石好きです。この方々が好むのは、宮田曰くの「いい感じの石ころ」ということのようです。しかし、いくら「いい感じ」と言ったって 宮田自身が「説明がつかない」というのですから手に負えないわけで、こうした場合はその言葉を、そのまま受取るよりほかありません。
子供のころ、川原で拾ったちょっと変わった石ころや海岸で見つけた綺麗な貝殻やと、いくつか集めた記憶があるにはありますが、じゃあその収集をその後も続けたかというと、その時だけのことだったようで、今やそれらに執着はありません。ありませんが、そうした<記憶の引っ掛かり>のようなものがあって、自分の掌にしっくりくる石ころがあれば「気持ちが楽になる」ことは分かるような気がします。いわゆる「いい感じ」、です。
