【社長のひとりごと】No.71-クッキングは世界を理解する一方法

 新型コロナの後遺症で味覚が覚束なくなったこともあり、以前ほど食べることに執着がなくなってきたとはいえ、どこそこの店が美味しいと聞けばついつい足が向いてしまいます。一方で料理を作る方となると、からっきし向いていないようです。もちろん袋のインスタントラーメンに野菜やハム等を鍋に一緒に入れて野菜ラーメンもどきを作ることはしますが、といって野菜炒めにするとかはしませんでした。あるいは鶏卵三個を使った厚焼玉子(子育て時分にお弁当用に作った)は、唯一といってもいい私の作る料理です。

 1994年生まれで新進の分析美学者の難波優輝は「もし世界から自分で料理をする文化が失われたら、それは世界を理解する一つの方法が失われるということを意味する」と言い切ります。そして「料理行為には、世界理解の営みとしての独特な価値が」あり、「世界を独特の仕方で理解できるから」だとします。

(1)素材:ピーマンやにんじんがどのような硬さや特性や味を持った素材なのか
(2)化学変化:それらにどのように火が入り、調味料が染み込んでいくのか
(3)料理スキル:それらにどのような調理を行えるのか、最終的にどのような料理が生まれるのか
(4)食べる人:食べてくれる人はどんな好みがあるのか

 つまり「自分で料理をつくるおもしろさとは、これら複数の要素をより深く理解することそれ自体のおもしろさに由来している」というわけで、難波は「料理行為という世界理解の方法を基本的な価値の一つとして主張したいと思うのだ。私たちは、料理行為を通して世界をみじん切りにしたり、世界を蒸したり、世界をカラッと揚げたりしている。世界を料理することでしか理解できない世界のありようを、私はこよなく愛している」とします。    (『批判的日常美学について 来たるべき「ふつうの暮らし」を求めて』難波優輝 晶文社)

 クッキングを敬遠する私には、「な~るほど、そんなものですか」と少し距離をおいて拝聴するしかありません。たんなる私の偏見かもしれませんが、わりと理数系の方が料理に関する蘊蓄を語っているような印象があります。う~む、私の偏見ですねぇ。

 ただ、私の場合は日常美学とはほど遠いのですが、日常的行為(洗濯物を干したり、食器を洗ったり等々)が意外と頭の中を整理し、筋道を整えていくことに役立っているように感じています。