「雑草のごとく踏まれても、踏まれても立ち上がる」とは、スポ根ものの格言のように定説になっていますが、はてさて本当にそうなのでしょうか?道端や広場などで人に踏まれた雑草は、どうも地面に横になっているばかりで、立ち上がろうとしている気配がありません。立ち上がっても、どうせまた踏まれてしまうのだからと、立ち上がろうとしないのでしょうか? う~む、ど根性ものに限らず私たちを奮い立たせて止まない、あの<雑草魂>はいったいどこにあるのでしょうか?
考えてみれば私たちがいう<雑草魂>とは私たちの事情であって、改めて雑草の立場に立っての事情をみてみましょう。横になった雑草は、こう叫んでいるかもしれません、「一体どうして立ち上がらなければならないんだ!?」って。はて!?
植物にとって一番大事なことは何かといえば、花を咲かせて種子を残す、ということになります。植物はそのためにすべてのエネルギーを使うわけで、踏まれるたびに立ち上がろうとするなら相当のエネルギーが必要となります。そんな無駄なエネルギーを使うよりどんなに踏まれても花を咲かせることにのみエネルギーを使ったほうが、植物にとってはいいに決まっているのです。そして植物が生きた証しとなる<種子>は、風に乗って運ばれたり、鳥に食べられることで運ばれたり、あるいは人の衣服等にくっ付いて運ばれたりと、それぞれの植物なりに自分の<種子>を別の場所へと次の<命>を繋ぎます。植物が踏まれても立ち上がろうとするというのは、私たち人間の勝手な、自己投影的な思い込みだったようです。<雑草魂>とは、つまり「踏まれたら立ち上がらない」だったのです。
そういえば子供と大人の間のころだったか、特に何という理由も原因もないまま足元にある雑草を、無暗やたらと薙ぎ倒していって、それでいて最後にスッキリしたかというとそうでもなく、あれは何だったのか、植物からすればとんだ迷惑で、踏まれたら踏まれたで立ち上がりもしないけれど、そうかといって、踏まれなければそのまま真っ直ぐに立っていたわけです。まぁ、人生には無目的で、無駄な行為をしてしまうという場面が、多々生じるものです。ほんとうのところは、その時点での<私>にとっては無目的でも、無駄でもないかもしれませんが。 (『泳げないカワウソの生きるヒント』稲垣栄洋 大和文庫)
