鹿島萬兵衛は、ペリーが浦賀沖に姿を現す4年前の嘉永2年(1849)に、江戸堀江町四丁目(1921年当時=今の三番町:註大鎌)に生まれました。大正10年(1921)に「今日上野の戦争当時のことはとにかく、(西南戦争での熊本籠城からもすでに半世紀近く経っており=大鎌註)それを覚えていらっしゃいます方は少なくとも五十四五歳六十に近きお方でなくてはならぬ、さすれば明治以前のことを御見聞なさった方の少なきは当然で、私も甚だ心細くなって」きたので、江戸末期の事々についてその記憶のままに記しています。その第三章の冒頭に当時の「江戸ッ子」に関する一文があり、それによると「江戸ッ子には二種類」があったとあります。(*以降も本文からの引用は現代仮名づかいとする)(『江戸の夕栄』 中公文庫)
「一と口に江戸ッ子と申しますが、その実江戸ッ子には二種類ありまして一様には申されません。(略=地方に出て「お江戸の衆」だと尊敬されたのは、田舎人と比べ物事が解り、お金の使い方も汚くないから=註大鎌)しかるに随分威張りながら銭遣いのきたない江戸ッ子もありました。これは二本差している人に多いようでした。二種類の一は山の手風、一は下町風といって風俗も多少変わっていました。女の風俗でも山の手は諸侯方奥向と御家中・お旗本・御家人が大部を占めているゆえ自然に野暮地味の風でした(「野暮なやの字の屋敷もの」と清元にも出ているくらい)。それに引き替え下町の風俗は、元禄より享保の頃、(略)金にあかせし贅沢の系統の、(略)順次通客顕れ出でしがため新進の流行品を作り出す。(略)また宵越の銭を持たぬ的の人々の七八割は下町に住居し山の手には少なく、半纏を殺して初鰹を飼うという人々は神田ッ子に多きがごとし。山の手方面に手はお旗本・御家人衆も、御役目によりては収入の豊かの方々には、宵越をお使いなさらぬ方もありしやに聞く。(略)その頃武家方のお買物振りは今日から見ると随分珍なものでした。お長屋の武者窓から首を出し、「コリャコリャコリャ肴や、お乾魚(ひどと)はあるか、価は何ほどじゃ、五枚十二銅(十二文)じゃと、それは大変高価じゃァないか、八銅(八文)でよろしいであろう、まけておきや」(略)などと、承認は虫けらのようでした。それでもその方々も江戸で産れた江戸ッ子だそうです。川柳点に「江戸ッ子の産れそこない金を溜め」、今日では追々生れそこないが多くなったとみえ大分限がふえました。」
どうやら武士の時代が終わり、生き残ったのは下町の「江戸ッ子」だったようです。
