笑い話のようですが、いかにもあるだろうという話です。言語学者の川添氏が、かなり以前に見たという「日本語をまったく知らない外国の方が日本を訪れるドキュメンタリー」番組のその中身というのが……、 (『ヒトの言葉 機械の言葉』川添愛 角川新書)
――その人はあらかじめ番組のスタッフに「日本では、『どうも』といっておけばどうにかなる」と教えられて、日本滞在中は「どうも」しか言いませんでした。挨拶も「どうも」、感謝も「どうも」、食事を食べる前も食べた後も「どうも」です。私の記憶が正しければ、その人は「どうも」一言で、さまざまな状況に対してうまく対処していました。つまりその人は、「どうも」という言葉を適切に使えていたと思います。しかしそのこととその人が「どうも」という言葉の意味を理解していることを同一視していいのか、疑問が残ります。
また、「振る舞いだけを根拠にして、言葉を理解しているかどうかを判断していいのか」という問題は、機械が言葉を理解しているかどうかを判断する際にも起こることです。
ということで改めて考えてみると、日本語の現場としてはありうる場面となるのですが、さて川添氏が疑問とする、かの外人は日本語の「どうも」の意味をはたして理解した上で使っているのか、つまり表面上は成り立っているように見える日本語の会話は本当に成り立っているのか、ということになります。これはなかなか難問ですね。
魔法の言葉のような「どうも」は、私もわりと使うことが多い気がします。しかも場面によって「どうもー」と語尾を伸ばしたり、「どうもどうも」と重ねたりと、調味料の「味の素」のようにけっこう重宝している印象です。言葉の調味料ですかねぇ。
言葉というのは、それぞれ言語によって単語の並び方に法則があります。日本語には日本語の文法や統辞法等があります。そうかといって、例えば用賀駅の近くで外国人(日本人でもいい)から「私、行く、世田谷美術館、どこ、道」と声を掛けられたとしたら、「あ、この人は世田谷美術館への道を訊いているのだ」と、特段の苦労をしなくても分かります。
会話の原初を想定してみると、赤ん坊と母親の対話でしょうか?言葉をまだ覚えておらず、当然言葉としての表現ができない赤ん坊とその母親の会話は、どうやらしっかりと成り立っているように見えますね。
