今や古き昭和の時代、山本リンダが「うわさを信じちゃいけないよ」と、当時としてはド派手に歌いまくっていましたが、さて、「うわさ」は「一般的に宛てにならないものであり、信じてはいけないものの代表とされ」ています。といって、記憶に新しいところでは新型コロナの発生当初にあったトイレットペーパーの在庫がなくなるとかの騒ぎがありました。「騒ぎ」ということは「信じてはいけない」うわさなのに、それにも拘らず人々は信じたのか、それとも信不信とは関係なかったのか、いずれにしろ「うわさ」に動かされて「騒ぎ」になったという結果になりました。
私たちの「うわさ」という日本語には、「間違った情報というネガティブな響きが含まれているかもしれ」ません。そうかといって「うわさ」はすべて間違っているのかというと、そうとばかりも言いきれないニュアンスがあります。つまり、「うわさ」とは「真偽がまだ確定していない」位相にあるといえそうです。あるいは私たちは「うわさ」をすることに快感を覚えたりもします。いわゆる「人の不幸は蜜の味」とは言い得て妙で、人間が社会生活を営んでいる証しといえます。 (『フェイクニュースを哲学する』山田圭一 岩波新書)
また、流れているうわさの真偽について、ある時あきらかに間違っていると判明したとすれば「うわさ」はその時点で「デマ」へと移行します。「デマ(デマゴギー)」の意味には「扇動のための政治的な意図」が含まれていますが、私たちは普段使いに「デマ」を使っています。「デマ」とは分かっていても「火のないところに煙…」で、世の中どうやら「75日」を待たなければならないようです。
まだネット社会もないころ伝言ゲームという遊びがありました。たとえば「焼き加減のよい四角い餅」という言葉を、AさんからBさん、BさんからCさん…と続けてPさんに伝わったころには「焼け焦げた丸餅」に変わっていたりします。「〇〇さんから聞いた話しだけど」といっても、どうやらその起点は不明というのが実情です。
「うわさ」は、その流れがAさんからBさん・B´さん・B1さん・B2さん…と拡がり、各BさんからCさん・C´さん・C1さん…とそれぞれが続き、イメージ的には網目のように際限なく拡散していきます。ネット社会の現代ではコピペにより「焼き加減のよい四角い餅」のまま拡散するのでしょうが、私たちが本当に恐れなければならないのは、個々人ではそれぞれ偽だと分かっていても、そんな思いとは違い、行ってはいけない方向へと社会の大勢が流れていくことではないでしょうか。
