【社長のひとりごと】No.23-釣り名人にはなれなかった

――蚊が飛び交い、べっとりした肌ざわりの澱んだ空気の中で瀬音が伝わってくる。これまでの経験から尺ヤマメが釣れそうな気がした。(略)それは役内川に関する評判と私自身の漠然とした思い込みによるものでしかなく、以前釣ったことがあるとか、必殺の好ポイントを調べてきたとか、というようなものでもなかった。(略)

  堰堤の下流の淵には岩が散在し、流れに変化を与えている。私の予想では、その流れが緩やかになった岸辺のあたりにヤマメが潜んでいるはずである。いや、いないわけがない。と、そんな思いを巡らせながら、(略)ここいらでアタリがあって、(略)それがまったくないのが不思議だった。

  私にかぎらず大方の釣り人は、竿を手に流れと向き合っているときは期待の一念で自信満々、というより自信過剰になっている。釣れないわけがないと思っているのである。そのせいか、釣れなかったときにはいつも摩訶不思議な気持ちにとりつかれるのだ。(略)釣欲にほだされ、釣りの何たるかを忘れてしまっていたようだった。

 釣りという行為は対象魚があってやりとりが成り立つ。相手は自然界の生きものだから釣れないこともあり得る、と思えばそれで済むのだが、いまの場合、釣れないこともまた釣りの範疇であることを忘れていた。(略)

 しかしその一方、心の片隅で、じつは腕が悪いからではないか、という疑念も払拭できないでいた。
(『渓流釣り礼賛』根深誠 中公文庫)            

 もうすっかり釣りからは遠のいて、というか釣り堀にも向かうことはありません。子供のころは初夏から秋口まで、近くを流れる川の瀬や淵に餌釣りでの釣りを楽しんでいました。釣りのウデはありませんでしたが、解禁前の若鮎が(成長期は雑食らしくて餌にも喰いつく)釣れたこともあり、淵に釣り糸を垂らしながらアタリが来るまで他にすることもなくぼぉ~っとしているのは、けっこういい時間だったのではないかと思っています。釣りキチの根深名人も使用する毛鉤(しかも手作り)ですが、私はどうも毛鉤での釣りが苦手で、どうも一呼吸タイミングが遅いらしく、結局そのコツをうまく掴めませんでした。

 釣りに限らずその道には名人がいて、いったいどういう仕組みになっているのか私には羨望するだけの、遠い世界でした(今でもそうですが)。