私たち日本人の目は何色なのでしょうか?じつは「黒い」というのは単なる勝手な思い込みであって、ほとんどは「茶色」だといいます。この黒い(茶色)目の真ん中に小さな丸い穴=瞳孔があり、これこそが「ひとみ」だといいたいのですが、黒(茶色)目全体を「ひとみ」と呼ぶ場合も少なくないので、限定できないといいます。
かの『解体新書』には「瞳ハ眼心ノ黒点ナリ」としていて、「ひとみ」は瞳孔だと断定していますが、普通はそんなに厳密に使ってはいません。「つぶらな瞳」はとても瞳孔だけを指しているとは思えませんし、「うるんだ瞳」だともっと拡がったイメージがあります。
さて、「ひとみ」を「瞳」と書くのは漢字を借りてきたのであって、本当なら「人見」と書くべきだろうといいます。それというのも、かの『大言海』には「人見ノ義カ」とあり、向き合った相手の目をじっと見ると、黒目のところに人の姿(自分)が見えていて、大昔の人にはそれが自分だとは気がつかず(いや、さすがに気づいてはいたのでしょうが)、「お、こんなところに人が見える」ということで、「人見」と名付けたのだろうとされています。しかも、そこに映っている人の姿が小さくて、まるで子ども(童子)のように見えたので「瞳」という漢字になったのではなかろうか、と。(『人体表現読本』塩田丸男 文春文庫)
まるで自分で見てきたかのように書いていますが、何といっても空を飛ぶものは飛行機以外食べるし、地上の四つ足なら机以外は食べると豪語し、かつ物ごとを誇大に喧伝すること「白髪三千丈」という国のことですから、何があっても不思議ではありません。それにしても、<出来過ぎた>感は否めませんね。もう少し調べて見ましょうか。
「ひとみ」には「眸」という漢字もあり、その由来を調べてみると、やっぱり<出来過ぎた>話だったということが分かりました。「童」はもともと「穴を通す」という意味で、「瞳は瞳孔を表す」とありました。何と、最初に戻ってしまいました。さすが『解体新書』という訳です。そしてもう一つの「眸」ですが、「牟」には「もとめる、むさぼる」という意味があり、「瞼を押しのけて見る」を表すことから、その意味は「目を見開いてよく見る」という意味になります。
便利さが求められて簡素化・簡略化していく社会的な進化は止まることを知りませんが、切り取られた<現在>からだけでは本来の、正しい認識には至りませんね。
