日本語には音訓があり、その音訓にもまた幾つもの読み方があって、日本語を学ぶ外国人を途惑わせます。私たちの「東京」にも、かつて「トウケイ」と「トウキョウ」があり、「ケイ」は漢音で、「キョウ」は呉音です。江戸を東京とする元となる詔書にもフリガナが付いておらず、明治の世には漢音・呉音での読み方が混在していたようです。それが現在のトウキョウに統一されたのは、明治37年(1904)の国定教科書『尋常小学読本』によるとされています。
さて最近はメールやラインで、ほぼオンタイムでの通信ができますが、ほんの少し前までは大急ぎの知らせは電報に頼っていました。映画やTVドラマでたまに見かけましたが、「チチキトク」とかの電報が、大抵が夜間に届けられ、それが物語の転回点になっていたりしました。この電報、今では慶弔の催事へのメッセージに使うぐらいですが、私たちは「電報を打つ」と言います。当初はどうだったのでしょうか。S・モールスさんの発明した(1837)電信機を日本に紹介したのはかのペリー提督で、二回目の開国交渉(1855)の際、その通信を実況してみせたといいます。そして、その電信機を幕府に寄贈しました。将軍への献上品目録に「雷電伝信機一 副連銅線」と記されているそうです。
明治となって、政府は早速に電信機器を購入し、明治2年(1869)12月には、東京・横浜間での公衆電報の取扱を開始しました。最初「伝信」でしたが、明治4年(1871)8月には「電信」とされ、なんと5年9月には東京・京都間の通信まで可能となりました。その後、明治7年(1874)12月には電信条例でtelegramの訳語として「電報」という用語が公式なものとされ、翌8年1月に全国への架線の布設が完了したそうです。「電信」も「電報」も当初は「掛ける」と言っていました。それは電信線を電信柱に架けていったことによります。その後モールス信号での打電から「打つ」に変ったのだろうといいます。
さて、その「打つ」となる決定的な要因はやはり教科書で、37年版では「おかけになる」でしたが、明治43年(1910)からの読本には「打つ」と変更されました。今も昔も、教育現場の影響は絶大ですね。 (『明治生まれの日本語』飛田良文 角川文庫)
