先日昼食に出た時、用賀駅の近くで前から歩いてくる男性が胸に抱いていたのは、その昔話題になっていた犬型ロボット(アイボ?)でした。モノを「抱えて」いたのではなく、生きている犬を抱いているかのようでした。生き物であれば違和感はないのでしょうが、けっこうシュールな光景で、少し心配になってしまいました。いや、もしかするとその人にとっては、ロボットではなくペットだった(生き物?)のかもしれません。それはそれである意味、現代的だと言えるのでしょう。
さて、ペットとして飼っている動物に対して、特別に強い感情を抱くということは古くから論じられてきているようです。
――ヴィクトリア朝では、鳥(およびその他の動物)に対して相反する考え方があった。
一方では、鳥は人間とは異なる存在であり、人と同じような感情を持つわけではないので、搾取や虐待をしても構わないと考えられていた。一方、多くの飼い主は、愛鳥が自分と同じ感覚や感情を共有していると思いたがっていた。(略)
現代では信じられないかもしれないが、犬を飼っている人ならそのような絆を認めるだろうし、人とペットの鳥との間にも同じような強い絆があるはずだ。
(『人類を熱狂させた鳥たち』ティム・バークヘッド 黒沢令子訳 築地書館)
とまあ、人間とペットの関係はどこの世界でも、いつの時代でも変わらないのかもしれません。今はあまり聞かなくなりましたが、一昔前の「ウチの番犬」と呼んでいた時代も、その家にとってはどんなに役立たずだとしても「ウチの犬」だったに違いありません。
けれどもペットのお墓の広告を改めて見たり聞いたりすると、ちょっといかがなものか、という感覚に襲われます。ちょうど街頭で、保護された犬猫の保護活動で「ネコちゃん、ワンちゃん」と言っているのに出くわした時と同じような、モヤッとした感じです。
同じ家に住む生きとし生けるものの「命」としての家族ならば、キッチンの陰に隠れているゴキブリだって「命」じゃないかと屁理屈を捏ねても始まりません。言い方を変えると他所様のペットは家族じゃないわけで、この犬(猫)は自分のことを誰よりも分かっていると、我とわが身を投影することができること、おそらくこれがペットを家族だと思うことの条件の一つかもしれません。ひょっとして、あのアイボも家族だったのか!?
